第一手『片手袋の撮り方』
片手袋の写真を撮り始めた頃の話。
最初はアップの写真だけしか撮っていなかった。
昔は片手袋を見つけると毎回、「写真におさめられるのはもうこれが最後かもしれない」という気持ちになったもんだ。だから、確実に落ちていた事が分かるよう、証拠写真のように面白味のないアップで撮っていた。
しかし何年か経つと、「これが最後」なんて有り得ないぐらい、物凄く沢山の片手袋がまちに落ちている事に気付く。そうすると余裕が出てきた。そして考えた。
大切なのは片手袋そのものだけじゃない。それが落ちている事によってほんの少しだけ変化したまちの空気感。その空気感こそが片手袋の醍醐味なんだ!
以来、僕は背景や状況もフレームに収めるようになっていった。今では片手袋がよく見えないぐらい遠くから写真を撮る事もある。
僕が遠くから片手袋を写すほど、僕と片手袋の距離は近くなっていく。
第二手『何を見ても…』
第三手『片手袋の墓場』
この世の何処かに象の墓場があり、死期を悟った象は自らそこへ赴きひっそりと死ぬ、とか、猫は死を悟るとひっそりと飼い主の前から姿を消し静かに死んでいく、などと言われている。
真偽はともかく、僕は少なくとも軍手の墓場の存在は知っている。
神聖な場所だが、今日は特別に写真だけ皆様に披露させて頂く。具体的な場所はどうかご勘弁を。
死期を迎えた軍手達が大量に集まっている。この中には揃いの軍手も片手袋も、どちらもある筈。
しかし、彼らはそんな事はもう気にしていない。ただただひっそりと、短い人生の間に掴んだ物達に思いを馳せるだけなのだ。
あなたはこんな顔で死ねますか?(©地獄甲子園)
第四手『片手袋との不思議な縁①釣り』
僕は釣りが大好きだ。海辺や湾岸沿いの道路に片手袋が多いのに気付いたのも、単純に釣りの為にそういう場所に行く機会が多いからだ。
ある日の深夜。いつも行くポイントで一心不乱にルアーを投げていた。狙うはシーバス。東京湾の王者。
リールを巻く手元と竿先に神経を集中させる。この時間、自分という存在が消え失せていくのが分かる。まるで禅の境地。
次の瞬間。「ゴゴッ!」。確かなアタリ。突如として打ち破られた静寂。全身を使って獲物を手繰り寄せる。デカい。
やがて何かを諦めたように奴は抵抗をやめた。心地よい疲労感を味わいながら、最後の力を振り絞り奴を水中から引き抜く。
片手袋。ディスポーザル類。
何故か疲労感が増したのを感じながら、俺はそっと竿をしまい帰路についた。
第五手『触れてはならぬ!』
僕がいつもやっている片手袋観察の手順は、
①片手袋に出会ったら絶対に触らない
②写真を撮る(出来れば引きと寄り両方とも)
③どのタイプの片手袋に分類出来るか観察してみる
④その片手袋が発生するに到った背景を想像してみる
という感じ。科学的態度と文学的態度を両立するのが重要なのだ。
介入型と放置型の話をすると、「じゃあ石井さんも片手袋を拾われるんですね」とよく言われる。でも上記のように僕は片手袋に絶対に触らない。
「片手袋は人の優しさの象徴」とか言っておきながら拾わないのは少々矛盾しているが、これには僕なりの考えがあるのだ。
人の何倍も片手袋と出会う僕が拾いだすと、他人を思いやる純粋な気持ちから外れていく気がするのだ。具体的には、写真を撮った時に面白くなるような場所を選んで置いてしまう気がする。それをやってしまうと、片手袋が持っている自然な面白さが台無しになってしまうだろう。
だから片手袋に触れたい気持ちをぐっと堪えて、観察者に徹している訳だ。
でも送水口のすぐ横に落ちてるこんな片手袋を見ると、その決意もぐらつきそうになる。だって「拾って送水口の上に置いてよ!」と言わんばかりのシチュエーションじゃないか!
でも、我慢我慢。
第六手『本末転倒』
ある日、買い物に行く途中、雨に濡れながらも鮮やかなピンク色をした子供用の片手袋を見付けた。デジカメを持っていなかったので、後で撮る事にした。
しかし、買い物からの帰り道、その片手袋は既になかった。
今までに見た事もないぐらい小さくて可愛らしい片手袋だったので、なくなっていたのは残念だった。写真に撮ってコレクションに加えたかったのに。
この話を知人にすると、「良かったね」と言われた。
僕はハッとした。
あんな短時間でなくなっていたのだから、恐らく子供のお母さんとかが気付いて取りに戻ったのだろう。片手袋は持ち主の所に戻り、再び両手袋になったのだから、確かに「良かったね」なのだ。
手袋は落とさない方が良いに決まっている。持ち主の思い出が沢山詰まったものなのだから。それなのに落としてしまうからこそ、片手袋に何とも言えない哀愁を感じるのだ。
その事を忘れていつの間にか、誰かが落とす事を願ってしまっていた自分。
ラーメンが好き過ぎて、もはやどこのラーメンを食べても美味いと言わなくなってしまったラーメンマニア、みたいな本末転倒ぶりに気付いて良かった。
皆さん、手袋は落とさないように!落としても必至で探しましょう!それでも見付からなくて独りぼっちになってしまった時こそ、僕の出番なのだ。
第七手『我なくす』
やってしまった。
大事な人から貰った大事な手袋。それをくれた本人の目の前で片方失くしてしまった・・・。しかも、その証拠写真をその人に撮らせている、という片手袋研究家としての業の深さ。
実は片手袋研究家を名乗っておきながら、僕自身何度も片手袋を失くしている。その度に思うのだが、手袋を失くすショックというのは意外な程に大きい。何故なら手袋は持ち主と共に様々な人生を過ごしているから。
日々出会う片手袋一つ一つに落とした人の大きな思いが詰まってる、という事を忘れないでおこう。
第八手『僕のルーツ』
僕はなんでこんなに片手袋に惹かれるのだろうか?
真剣に考えてみると、そのきっかけは小学校一年生までさかのぼる事になる。小学校一年生の、初めての学芸会。本格的な演劇など経験した事のない僕達が初めて挑んだ演目。
それがウクライナ民話の『てぶくろ』。おじいさんが森で手袋を片方落としたことから始まる動物達の物語。
劇に取り組むにあたって国語の授業で原作の絵本を皆で読んだ。話もさることながら、その温かい絵柄は僕達をあっという間にこの物語の虜にした。
♪て~ぶく~ろ~ てぶくろ~
劇中で歌ったそんな歌を今でも覚えている。初めての学校生活、初めての共同作業。とても大切な思い出だ。
片手袋の写真を撮る、なんて無意味な行為にも、振り返ればちゃんとルーツがあったりするもんなんだな。
第九手『旬の判断』
片手袋の旬はいつか?一年中出会う事は出来るが、量や種類がダントツで多いのはやはり冬であろう。ならば旬は冬という事になる。
さて、一流の釣り師は、気温や風、川や海の流れ、小魚の動きなど総合的に判断して、ターゲットなる魚の旬、つまり釣りの最盛期を見極めるという。
では片手袋の旬が到来した事をどうやって判断するのか?条件は色々とあるが…
スーパーの荷造り台にこのような感じで忘れ去られた片手袋が目に付きだしたら、旬に突入したと考えて間違いないだろう。
皆さん、教科書に載っていないけど生きていく上で重要な知識って沢山あるんです。そして今回の情報は、生きていく上であまり重要でない知識だと言わざるを得ないだろう。
僕には大事な問題なのっ!
第十手『境界線』
「みなさん、今度の遠足のおやつは300円までですよ!」
「先生~、バナナはおやつに入りますか~?」
「バナナはお弁当のうちに入るとみなします」
「先生~、指サックは片手袋に入りますか?」
「…」
あなたは、どう考えますか?(『それいけ!!ココロジー』の美輪明宏風に)
第十一手『趣味は呪い』
ライムスターの『Once again』という曲に、“「夢」別名「呪い」”という歌詞がある。確かに夢は人を生かす原動力にもなるが、人の人生を狂わせる呪いにもなり得る。
よく「何故片手袋研究なんてやってるんですか?」と聞かれる。そりゃあ子供の頃に出会った『てぶくろ』という絵本からの影響や、この十年間に起きた様々な楽しい瞬間の説明は出来る。でもそれは“片手袋に魅かれたきっかけ”だったり“片手袋の楽しさ”だったりで、“何故続けているのか?”という問いの答えではない。
実は、僕自身が誰よりも「何故片手袋研究なんてやってるのか?」分からないのだ。というより、片手袋研究の十年は、その答えを探し求める十年でもあったのだ。
確かに片手袋は楽しい。色んな事が分かってきたり、今まで見た事ないようなタイプに出会ったりするとテンションが上がる。でもそれと同じくらい片手袋を撮り続ける動機になっているのは罪悪感だったりする。見付けた片手袋を写真に撮らないと、何かすごく悪い事をしているような気になってしまうのだ。
この意味不明な罪悪感について考える時、「“「趣味」別名「呪い」”でもあるな」と思った。片手袋を続ける理由はおそらく一生分からないだろう。でも僕はどういう訳だか、片手袋を撮り続ける、研究し続ける呪いにかかってしまったようだ。
ただ最後に一つだけ。この呪いは、すこぶる楽しい。
第十二手『タモリさんは言った。“片手袋は供養である”』
『SWITCH』という雑誌のジャズタモリ特集を読んでいたら、みうらじゅん氏がこんなような事を語っていた。
「タモリさんは番組の収録中、マイクも拾わないような場面でボソッと重要なことを言う」
ああ、如何にもタモリさんらしいな、と思った。子供の頃から大好きだったタモリさん。僕はタモリさんのそんな所に魅かれていたんだと思う。お笑い芸人なのに前に出ようとはせず、隅っこの方で物凄く面白い事を呟いている。格好良いんだ。
「タモリ倶楽部でタモリさんに片手袋について聞いて貰えたら」という、僕の長年の夢。先日それが遂に叶った。足と足が机の下で触れ合うくらいの距離にタモリさんがいる。収録が始まる前は「何とか印象に残るようなプレゼンをしたい!」なんて考えていたけど、実際にあのお方を目の前にしたらあっという間に委縮してしまった。
でも、サングラスの下の目が笑ってくれている瞬間が何回かあり、僕は夢の中にいるようだった。そして何より、タモリさんは片手袋研究の概要を素早く理解して下さった。僕の「出会った片手袋には触れない」というポリシーもも、「そうじゃなきゃダメだよ」と言って下さった。
そして、みうらじゅん氏が語っていたような瞬間が訪れる。「要するに、あなたがやっている事は片手袋の供養だよね」…。タモリさんはボソッと呟いた。僕の頭に電撃が走った。
今まで何度か「片手袋研究とは○○である」という紹介をしなければならない場面があった。でも長年の研究を一言でまとめられない、というよりそれは僕もまだ理解出来ていない事なのだ。
以前、宮田珠己氏と新聞の記事でお話しさせて頂いた時、後日宮田氏からこんな言葉を頂いた。「片手袋は石井さんにとって“祈り”なんじゃないでしょうか?」。正直その時は言葉の真意を完全には理解できなかったのだが、タモリさんの“供養”という言葉を聞いて、ようやく考えの整理がついた。
「ではそれはどういう事か?」という結論を出すのはまだ先の事だけれど、これから次の十年に向けて新たな指針を得たような気がする。
今日のところはこの一枚をご紹介します。拾った片手袋を道端のお地蔵さんの横に置いていった人は、何を考えていたんでしょう?